着ること/脱ぐこと

日本記号学会編『叢書セミオトポス9 着ること/脱ぐことの記号論』  

我々は日常的に衣服を身にまとい生活をしている。それは普段は意識の俎上にすらのぼらない程度に当然の習慣としてほとんど大部分の人に受け入れられている。

・・・ とはいえ、我々が意識するしないにかかわらず、我々は服を「着る」ことでひとつの属性に還元されることになってしまうと、『着ること/脱ぐことの記号論』は指摘する。
このことは、制服やスーツ、あるいは袈裟など、特定の身分・職業と緊密に結びついた服装を考えれば、容易に理解されるだろうけれど、『着ること~』が指摘しているのはもっと広い範囲の現象なのだ。

つまり「どんな服装もより多く、あるいは少なく制服的」であり、服を着ることは、「人間を意味の体系に登録すること」であると、少し抽象的に定義をし直す。

この定義に沿って、『着ること~』では服を「着る/脱ぐ」ことの意味が、この現代で如何に複雑に、そして多様に拡がりを見せているかを紹介した講義録、あるいは論文が収録されている。

多くは口語体で書かれており、脚注も充実しているので難解な術語の理解に戸惑って読み進めるのに支障をきたす、ということはほとんどない。

いくつか鮮やかに印象に残った部分があるが、とりわけ面白かったのは冒頭に収録されている哲学者の鷲田清一と記号学会長の吉岡洋が対談中に聴講者から質問を受ける場面だ。

聴講者は鍼治療を生業としていて、治療中は患者に下着になってもらう。
彼が言うには、初診の時にプロポーションがいい患者も、二回目三回目になると崩れてしまうそうで、彼が推察する所によれば、患者が徐々に慣れてリラックスしてくること
そして鍼によって身体が緩んでくるためだとし、それが「身体をひとつ脱いでいるという感覚」なのではないかと感じたという。

それを聞いた吉岡の、「患者さんのプロポーションが崩れるというのは、たぶんその人の体調は良くなっていると思うのですが、ということは、緊張を伴った不健康な体の方を美しいとする基準が支配的だということですね」という指摘から、

ある種の価値観にしたがってしまうと、他の重要なものの価値を無意識的に排除してしまうのだということを、改めて感じた。

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